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秀吉による巧みな意図で、兄義久との仲を割る目的での島津家中の勢力分断作戦が功を奏しているように感じる。強力な大名の家中を対立させ、国元薩摩に在中する義久との不和を作ろうとした。関ヶ原の戦いでは番組内で言われていた義弘への家康からの援軍要請があったが伏見城に入れずやむなく西軍に参加したという説は、幕藩体制後の記録であり、西軍参加の書状も残っているそうなので、初めから反家康として参戦する計画だったと思う。行きがかり上、西軍として戦うことになったとは現実的に考えて無理があり、東軍参加を決意していたならどんな状況下でもその意志を貫徹したろうし、真っ先に小早川秀秋より早く西軍を裏切ることも可能だからだ。義弘は一説には、家臣の子の誕生を祝し、家臣に機会があるごとに声をかけ、近い距離で接していたようだ。だからこそ人間味あふれる彼に心酔する兵も多く、有名な島津の退き口も行えたのだろう。それが、悲惨な捨て奸や義弘の死後に禁じられていた殉死などの家臣の行動にも表れていて、彼への強い忠誠心崇拝の感情の表れでもあったのだと思う。
関ケ原の戦いで、数少ないなとは思っていましたが、事情があったんですね面白かったです
島津義弘公。つよさとやさしさを任せもつ素敵な人ですね。
優柔不断というよりもそういう立場に追い込まれてどうしようもなかったのでしょうね。それでも勝機を求めて前進する姿勢は武人の鏡だと思います。
裏切りで卑怯者扱いの小早川秀秋は同じような境遇で寝返ったわけでとても対照的。この評価の違い。おもしろい。秀秋の立場も理解できたので勉強になりました。
朝鮮の役での要請。関ヶ原での要請。頼みの兵がこないなんて。。。そういう星に生まれたことを恨んだでしょうね。
もし義弘に5000の兵がいて立花宗茂が関ヶ原にいたら・・・。もしかして。。。
島津の領地が九州の南端で周りが海で北に出ていくしかない訳でなんか地理的にそんな雰囲気を感じる。
今回の教訓は、ビジネスや人生をおくる上では重要な考えだと思いました。なぜなら、人生は後戻りできないからです。
この番組大好きです、どんどんアップロードしてください
Blu-rayやDVDのBOXセットで発売しても良い番組なんだよな!!
偉人・敗北からの教訓 毎回楽しみにしてます。
天下分け目の合戦!ドラマティックかつ、冷静な分析ありがとうございます👍ぜひ関ヶ原古戦場巡りのロケ企画もお願いします!
大河ら戦国ドラマでちんぷんかんぷんが、やっと、初めて解消した。秀作
来年の大河が、「兄弟」をテーマした羽柴秀吉・秀長だから、大河で島津4「兄弟」が取り上げられるのが更に遠退いてしまった・・・
家康が井伊直政を和睦に送ったのは「お前らが重傷を負わせた直政がわざわざ来たんやからごたごた言うなよ?」って意図があったような気がする・・・。
家康本陣攻防戦を井伊軍と島津軍の両者の視点で取り上げてくれてありがとう
島津義弘こそ、大河ドラマの主人公に取り上げて欲しい人物!
島津義弘、小早川隆景、加藤清正は難しいかもね。島津義久なら可能性あるが…
朝鮮出兵で活躍した武将は扱いづらいようですね。立花宗茂や加藤清正も…
北条が先じゃない?義弘を描く場合、朝鮮の役問題あるし
伏見城入場を断られ渋々西軍に着いた と言う話があるけど、これ正直疑わしいんだよねーというのもこの話が出てくるのが.島津家譜や薩藩旧記雑録.という江戸時代中後期の史料なうえ本当だったら関ヶ原後に西軍に味方した弁明の義久と家康のやり取りのなかで出て来てもいい話なのにそれが無い。また会津征伐自体が九州大名には動員例が課せられてないし、伏見にいる義弘も軍勢を率いていたわけでもないのに頼まれるかな?更には西軍決起前から会津の上杉景勝のもとへ秀頼様の為に決起する旨を書状にしたため送ってるくらいだし。だからこの話は徳川幕府に対する配慮や体裁のための話なんじゃないかなー
義弘公の武勇と人望は傑出している、武士の鑑ですよ
部下や身内を盾にして敵前逃亡する武士は尊敬できません。
義弘の子孫の方、実際に血がつながっているかどうかは知らないが、顔がまさに鬼島津っぽいw
なんで忠良の肖像画モザイク?
鳥居元忠が義弘を伏見城に入城させなかったのが悪い。しかし退き口で家康に一泡吹かせた事が明治維新へと繋がっているので、歴史は面白い。
子孫が義弘のイメージそのままの顔しててDNAの強さを感じる
まあ、九州平定付近ですら、割と兄弟間で動きがちぐはぐだったし、義弘自身も岡城攻略でグダグダだったからなあ。本当はここで開設したとおり、割と優柔不断だったというのも何となくわかる。
長宗我部やってくれ。
戦わずに逃げる!兵法の神髄を見た?
やっぱり兵法の神髄は、戦わずして勝つだな。
義弘のこの状況で伏見城入場拒否されて西軍に付く以外でどうすりゃよかったんや近江美濃を通って清須に行くか伊勢の京極を頼るかすりゃいいのか。あとは細川か。
この敵中突破から無事に薩摩に帰還できた将兵は80人足らずだと言われてる
3度言ったと義弘だったら本当にやって勝ちそう
負け戦おろか東軍に傷を負わせ正々堂々戦場離脱し、主君義弘公を薩摩まで帰還する事に成功。薩摩から言わすれば薩摩島津武士の威厳を全国に思い知らせてやったも同然。島津を侮ると痛い目みっど。御館様の為なれば命など惜しくなか。
BGM12分頃なんとかの野望のパクリっぽくて良い
大将・義弘を逃がすために井伊直政・松平忠吉が率いる追撃軍を食い止め烏頭坂で30代前半の若さで討死にした島津豊久の墓参りをした事があります、豊久の事を語らずに島津義弘の脱出劇は語れない
自分も宇喜多にやられた末裔であり、西軍より東軍派ですが、義弘公を守るために身体を張って討ち死にした三男の忘れ形見の豊久の話はしてほしかった😢
「島津義弘公」は、郷土の誇り❗️✨️✨️負けてなどいない(´・ω・`)薩摩武士は徳川相手にEven 「tie game」「drawn game」に持ち込んだのだ 負けて無い❗️間違えるな いざ妙円寺詣り
島津義久により島津は救われた。義久は戦略脳を持つ武将ではない。常に前線に立つ猛将気質です。最大の能力は相手戦力を正確に見抜く事ができるところにあります。同じ行動気質の伊達政宗・徳川慶喜の対応力と同じになります。対応して勝てぬと判断すれば徹底した恭順です。政宗はこの気質で豊臣・徳川を生き抜き、慶喜も無抵抗恭順で明治への橋渡しを行いました。義久は坊主にして許しを乞います。家康は統治戦略もあり許しますが、秀吉に許された政宗と同じような経緯です。朝鮮出兵も家康と三成の対決も戦力優位はどちらか理解できていたのでしょう。義弘は天下の闘将です。しかし情にもろく戦略脳は薄い。戦略家の下では無類の強さを発揮する。頼朝の下で義経、尊氏の下で師直、後醍醐帝の下で正成、信長の下で勝家、秀吉の下で小六・正則・三成、家康の下で忠次と。とくに義弘は秀吉とも家康とも夫婦型関係の気質だが状況から、秀頼様恩ためで納得したのでしょう。小早川秀秋・京極高次も義弘と同じ気質を持ち合わせているので、悩み抜いた。すでに御存知の通りです。
関ケ原開戦直前、手持ちの兵力もほとんどない中で、西軍に従わざるをえなかったのは仕方ないんじゃないかな。選択肢を自由に選べる状況なら優柔不断ともいえるけれど、これは仕方がない。伊東さんの評価は厳しすぎるよ。悠理さまは今夜もお美しい。一度ぐるりと振り返って後ろの帯結びも見せてほしい。着付けの方もきっと力を入れたのでしょうから。
チート級に最強ヒーロー、色んな意味で
直正からしたら「自分に正々堂々戦い、かつここまで手傷を負わせた相手を見捨てるなど侍のやることではない‼️」では?
冗長な文で文句言ってる人はどうせなら学術論文書いたり自身のRUclipsチャンネル立ち上げて島津義弘シリーズ投稿すればいいのに...
伊東潤さん、お疲れ様です。今度、過大評価されてる偉人の特集をしてください。まずは、ご自分からで。
作家視点の好き嫌いが如実に出たな。まあ、徳川や会津好きには薩長嫌いは多いから気にはならないが。
この動画、島津義弘のこれまでの経歴と実績をよく整理しないで解説されてませんか。義弘の座右の銘「いそぐなよ、また急ぐなよ、世の中の定まる風の、吹かぬかぎりは」です。若いころは、伊東氏との戦いで、討ち死に寸前まで追い込まれたこともありました。しかし、その後、義弘の成長とこの銘のおかげもあり、木崎原の戦い、高城の戦い、泗川の戦いなど圧倒的な不利な状況でも勝利を上げてきたのです。状況をしっかり掴んで好機に備えるのが義弘です。
戦国島津を評価できない人に、幕末島津と薩摩藩を評価はできまい。
最初は外資コンサル出身の作家で境遇が同じだなと思って興味持っていましたが、番組でのコメントには興ざめしてしまいました。私はまさに登場する鹿児島の伊集院・妙円寺で育ちました。鹿児島の歴史を学ぶ者たちはみな義弘公が好きですが、朝鮮の役での功績が大きすぎるばかりに大河にも取り上げられず、不遇だといつも感じています。。。これだけドラマチックに戦国を長寿・大往生して畳の上で死んだ武将は稀です。過大評価と仰る方々は歴史を知らないか、朝鮮での活躍に恨みを持つ方たちでは?と思ってしまいます。そもそも人類の有史以来、これだけの大会戦で前進退却した例はないです。天下分け目の戦いで大勢を動かせる能力のある指揮官であるにも関わらず、何もできず、如何にして武名を挙げて死ぬ・もしくは生き残って家の存続をするか、という一点で敢行した苦渋の決断です。少数の島津が全力で戦ったところで小早川が裏切るのでその点についても大勢を動かすパワーが残念ながらありません、黒田、細川、その他に攻められている石田勢を援護できたぐらいが関の山です。伊東先生の著書は幾らか拝読して面白いなと思いますが、徳重神社やその隣りにある妙円寺という寺やその住職から話を聞いたことがありますか?私にはその点は明らかに場所と地名だけの紹介で終わっていて、なにも大事なことが取材されていないように感じます。それは番組の構成的に、優柔不断な義弘という少し今までの見方と違う新しい義弘公の姿を指摘したいというだけなのでは?そこにある資料や口伝されてる話や神仏を尊んだ義弘公の姿と共に色んな話や歌が遺っています。それを知らないからこのような嫌な顔をしながらコメントされたのかな・・と思ってしまいました。とてもじゃないですが、優柔不断の人で関が原を戦わなかったことを批判されるような薩摩武士として恥ずべきことは何もしていないと思いますよ。もししてるなら木崎原での勝利や彼を慕って人の和を重んじる義弘公は尊敬もされず、1000人以上の本国からの自費負担で戦場に駆けつける家臣などいなかったかと。これだけの少数で本国からの補給もなく、1日で終わるはずがないと思われた天下分け目の戦が半日で四面楚歌になる状況を当時誰が予想したんでしょう。補給もなく1日全力で戦えばその後のことを誰が面倒みるのか、というそういう心配が常に頭の中にあったはずで、いざその場で福島・井伊・徳川本陣をかすめる突撃をする判断ができた武将と兵は彼らだけかと。伊東先生はもうちょっと郷土史や現地での取材力がある方かと思いましたが少し残念に思った次第でした。もし紹介していないだけだったり、全てを知ったうえでそういう発言だったのでしたら申し訳ありません。
@@TsukasaMN 小国だからと甘く見られているのかもしれもはんな。あなた様の薩摩島津を思う心、決して忘れぬよう。島津武士の精神を今の時代でも持つ事が御館様への供養でもあり、喜ばれる事でごわす。薩摩島津を思う熱き同士がいる事に感動致しもした!
猫好きに悪人なし
😻猫神社😻
@大石内蔵助-k9s そうですね。仙巌園内にありますな。しかし、端にある島津が中央政界?に疎くなるのはしょうがないわけで、司会陣の島津嫌いが伝わり、なんか嫌な回ですな。
@@カリデカ 朝鮮出兵のさい、明(チャイナ)の工作員が極秘に薩摩に来日し、島津の僧侶と会談してますよ。明、島津連合軍で豊臣政権転覆の工作。島津単独で九州統一できたのだから、明と組んで日本支配は可能だったはず。ナゼ、それを蹴ったのかは藪の中。琉球を通じて世界が最も理解できたはずです、
秀吉の朝鮮出兵のさい、明国(チャイナ)から密使が薩摩に来日し、島津の政治僧侶と極秘会談している。明は薩摩と組んで豊臣政権を転覆、薩摩の傀儡政権を作ろうとした。島津単独で九州制覇できるのだから、明と手を結べば天下取りは可能。ナゼか、島津はその工作に乗らなかった。琉球を通じて世界の情報が取れた。その情報を活かすも殺すも、斉彬クラスのクレバーでないと。武骨だけでは。
秀吉による巧みな意図で、兄義久との仲を割る目的での島津家中の勢力分断作戦が功を奏しているように感じる。強力な大名の家中を対立させ、国元薩摩に在中する義久との不和を作ろうとした。関ヶ原の戦いでは番組内で言われていた義弘への家康からの援軍要請があったが伏見城に入れずやむなく西軍に参加したという説は、幕藩体制後の記録であり、西軍参加の書状も残っているそうなので、初めから反家康として参戦する計画だったと思う。行きがかり上、西軍として戦うことになったとは現実的に考えて無理があり、東軍参加を決意していたならどんな状況下でもその意志を貫徹したろうし、真っ先に小早川秀秋より早く西軍を裏切ることも可能だからだ。義弘は一説には、家臣の子の誕生を祝し、家臣に機会があるごとに声をかけ、近い距離で接していたようだ。だからこそ人間味あふれる彼に心酔する兵も多く、有名な島津の退き口も行えたのだろう。それが、悲惨な捨て奸や義弘の死後に禁じられていた殉死などの家臣の行動にも表れていて、彼への強い忠誠心崇拝の感情の表れでもあったのだと思う。
関ケ原の戦いで、数少ないなとは思っていましたが、事情があったんですね
面白かったです
島津義弘公。つよさとやさしさを任せもつ素敵な人ですね。
優柔不断というよりもそういう立場に追い込まれてどうしようもなかったのでしょうね。
それでも勝機を求めて前進する姿勢は武人の鏡だと思います。
裏切りで卑怯者扱いの小早川秀秋は同じような境遇で寝返ったわけでとても対照的。
この評価の違い。おもしろい。
秀秋の立場も理解できたので勉強になりました。
朝鮮の役での要請。関ヶ原での要請。頼みの兵がこないなんて。。。
そういう星に生まれたことを恨んだでしょうね。
もし義弘に5000の兵がいて立花宗茂が関ヶ原にいたら・・・。
もしかして。。。
島津の領地が九州の南端で周りが海で北に出ていくしかない訳で
なんか地理的にそんな雰囲気を感じる。
今回の教訓は、ビジネスや人生をおくる上では重要な考えだと思いました。
なぜなら、人生は後戻りできないからです。
この番組大好きです、どんどんアップロードしてください
Blu-rayやDVDのBOXセットで発売しても良い番組なんだよな!!
偉人・敗北からの教訓 毎回楽しみにしてます。
天下分け目の合戦!
ドラマティックかつ、冷静な分析ありがとうございます👍
ぜひ関ヶ原古戦場巡りのロケ企画もお願いします!
大河ら戦国ドラマでちんぷんかんぷんが、やっと、初めて解消した。秀作
来年の大河が、「兄弟」をテーマした羽柴秀吉・秀長だから、大河で島津4「兄弟」が取り上げられるのが更に遠退いてしまった・・・
家康が井伊直政を和睦に送ったのは
「お前らが重傷を負わせた直政がわざわざ来たんやから
ごたごた言うなよ?」
って意図があったような気がする・・・。
家康本陣攻防戦を
井伊軍と島津軍の両者の視点で取り上げてくれてありがとう
島津義弘こそ、大河ドラマの主人公に取り上げて欲しい人物!
島津義弘、小早川隆景、加藤清正は難しいかもね。島津義久なら可能性あるが…
朝鮮出兵で活躍した武将は扱いづらいようですね。立花宗茂や加藤清正も…
北条が先じゃない?義弘を描く場合、朝鮮の役問題あるし
伏見城入場を断られ渋々西軍に着いた と言う話があるけど、これ正直疑わしいんだよねー
というのもこの話が出てくるのが.島津家譜や薩藩旧記雑録.という江戸時代中後期の史料なうえ
本当だったら関ヶ原後に西軍に味方した弁明の義久と家康のやり取りのなかで出て来てもいい話なのにそれが無い。
また会津征伐自体が九州大名には動員例が課せられてないし、伏見にいる義弘も軍勢を率いていたわけでもないのに頼まれるかな?
更には西軍決起前から会津の上杉景勝のもとへ秀頼様の為に決起する旨を書状にしたため送ってるくらいだし。
だからこの話は徳川幕府に対する配慮や体裁のための話なんじゃないかなー
義弘公の武勇と人望は傑出している、武士の鑑ですよ
部下や身内を盾にして敵前逃亡する武士は尊敬できません。
義弘の子孫の方、実際に血がつながっているかどうかは知らないが、顔がまさに鬼島津っぽいw
なんで忠良の肖像画モザイク?
鳥居元忠が義弘を伏見城に入城させなかったのが悪い。しかし退き口で家康に一泡吹かせた事が明治維新へと繋がっているので、歴史は面白い。
子孫が義弘のイメージそのままの顔しててDNAの強さを感じる
まあ、九州平定付近ですら、割と兄弟間で動きがちぐはぐだったし、義弘自身も岡城攻略でグダグダだったからなあ。
本当はここで開設したとおり、割と優柔不断だったというのも何となくわかる。
長宗我部やってくれ。
戦わずに逃げる!
兵法の神髄を見た?
やっぱり兵法の神髄は、戦わずして勝つだな。
義弘のこの状況で伏見城入場拒否されて西軍に付く以外でどうすりゃよかったんや
近江美濃を通って清須に行くか伊勢の京極を頼るかすりゃいいのか。あとは細川か。
この敵中突破から無事に薩摩に帰還できた将兵は80人足らずだと言われてる
3度言ったと義弘だったら本当にやって勝ちそう
負け戦おろか東軍に傷を負わせ正々堂々戦場離脱し、主君義弘公を薩摩まで帰還する事に成功。薩摩から言わすれば薩摩島津武士の威厳を全国に思い知らせてやったも同然。島津を侮ると痛い目みっど。御館様の為なれば命など惜しくなか。
BGM
12分頃
なんとかの野望のパクリっぽくて良い
大将・義弘を逃がすために井伊直政・松平忠吉が率いる追撃軍を食い止め烏頭坂で30代前半の若さで討死にした島津豊久の墓参りをした事があります、豊久の事を語らずに島津義弘の脱出劇は語れない
自分も宇喜多にやられた末裔であり、西軍より東軍派ですが、義弘公を守るために身体を張って討ち死にした三男の忘れ形見の豊久の話はしてほしかった😢
「島津義弘公」は、郷土の誇り❗️✨️✨️
負けてなどいない(´・ω・`)薩摩武士は徳川相手に
Even 「tie game」「drawn game」に持ち込んだのだ 負けて無い❗️間違えるな いざ妙円寺詣り
島津義久により島津は救われた。義久は戦略脳を持つ武将ではない。常に
前線に立つ猛将気質です。最大の能力は相手戦力を正確に見抜く事ができ
るところにあります。同じ行動気質の伊達政宗・徳川慶喜の対応力と同じ
になります。対応して勝てぬと判断すれば徹底した恭順です。
政宗はこの気質で豊臣・徳川を生き抜き、慶喜も無抵抗恭順で明治への橋
渡しを行いました。義久は坊主にして許しを乞います。
家康は統治戦略もあり許しますが、秀吉に許された政宗と同じような経緯
です。
朝鮮出兵も家康と三成の対決も戦力優位はどちらか理解できていたのでし
ょう。
義弘は天下の闘将です。しかし情にもろく戦略脳は薄い。戦略家の下では
無類の強さを発揮する。
頼朝の下で義経、尊氏の下で師直、後醍醐帝の下で正成、信長の下で勝家、
秀吉の下で小六・正則・三成、家康の下で忠次と。
とくに義弘は秀吉とも家康とも夫婦型関係の気質だが状況から、秀頼様恩
ためで納得したのでしょう。
小早川秀秋・京極高次も義弘と同じ気質を持ち合わせているので、悩み抜
いた。すでに御存知の通りです。
関ケ原開戦直前、手持ちの兵力もほとんどない中で、西軍に従わざるをえなかったのは仕方ないんじゃないかな。選択肢を自由に選べる状況なら優柔不断ともいえるけれど、これは仕方がない。伊東さんの評価は厳しすぎるよ。
悠理さまは今夜もお美しい。一度ぐるりと振り返って後ろの帯結びも見せてほしい。着付けの方もきっと力を入れたのでしょうから。
チート級に最強ヒーロー、色んな意味で
直正からしたら「自分に正々堂々戦い、かつここまで手傷を負わせた相手を見捨てるなど侍のやることではない‼️」では?
冗長な文で文句言ってる人はどうせなら学術論文書いたり自身のRUclipsチャンネル立ち上げて
島津義弘シリーズ投稿すればいいのに...
伊東潤さん、お疲れ様です。
今度、過大評価されてる偉人の特集をしてください。
まずは、ご自分からで。
作家視点の好き嫌いが如実に出たな。
まあ、徳川や会津好きには薩長嫌いは多いから気にはならないが。
この動画、島津義弘のこれまでの経歴と実績をよく整理しないで解説されてませんか。義弘の座右の銘「いそぐなよ、また急ぐなよ、世の中の定まる風の、吹かぬかぎりは」です。
若いころは、伊東氏との戦いで、討ち死に寸前まで追い込まれたこともありました。しかし、その後、義弘の成長とこの銘のおかげもあり、木崎原の戦い、高城の戦い、泗川の戦いなど圧倒的な不利な状況でも勝利を上げてきたのです。状況をしっかり掴んで好機に備えるのが義弘です。
戦国島津を評価できない人に、幕末島津と薩摩藩を評価はできまい。
最初は外資コンサル出身の作家で境遇が同じだなと思って興味持っていましたが、番組でのコメントには興ざめしてしまいました。
私はまさに登場する鹿児島の伊集院・妙円寺で育ちました。鹿児島の歴史を学ぶ者たちはみな義弘公が好きですが、朝鮮の役での功績が大きすぎるばかりに大河にも取り上げられず、不遇だといつも感じています。。。これだけドラマチックに戦国を長寿・大往生して畳の上で死んだ武将は稀です。
過大評価と仰る方々は歴史を知らないか、朝鮮での活躍に恨みを持つ方たちでは?と思ってしまいます。
そもそも人類の有史以来、これだけの大会戦で前進退却した例はないです。天下分け目の戦いで大勢を動かせる能力のある指揮官であるにも関わらず、何もできず、如何にして武名を挙げて死ぬ・もしくは生き残って家の存続をするか、という一点で敢行した苦渋の決断です。
少数の島津が全力で戦ったところで小早川が裏切るのでその点についても大勢を動かすパワーが残念ながらありません、黒田、細川、その他に攻められている石田勢を援護できたぐらいが関の山です。
伊東先生の著書は幾らか拝読して面白いなと思いますが、徳重神社やその隣りにある妙円寺という寺やその住職から話を聞いたことがありますか?私にはその点は明らかに場所と地名だけの紹介で終わっていて、なにも大事なことが取材されていないように感じます。それは番組の構成的に、優柔不断な義弘という少し今までの見方と違う新しい義弘公の姿を指摘したいというだけなのでは?
そこにある資料や口伝されてる話や神仏を尊んだ義弘公の姿と共に色んな話や歌が遺っています。それを知らないからこのような嫌な顔をしながらコメントされたのかな・・と思ってしまいました。
とてもじゃないですが、優柔不断の人で関が原を戦わなかったことを批判されるような薩摩武士として恥ずべきことは何もしていないと思いますよ。もししてるなら木崎原での勝利や彼を慕って人の和を重んじる義弘公は尊敬もされず、1000人以上の本国からの自費負担で戦場に駆けつける家臣などいなかったかと。
これだけの少数で本国からの補給もなく、1日で終わるはずがないと思われた天下分け目の戦が半日で四面楚歌になる状況を当時誰が予想したんでしょう。補給もなく1日全力で戦えばその後のことを誰が面倒みるのか、というそういう心配が常に頭の中にあったはずで、いざその場で福島・井伊・徳川本陣をかすめる突撃をする判断ができた武将と兵は彼らだけかと。
伊東先生はもうちょっと郷土史や現地での取材力がある方かと思いましたが少し残念に思った次第でした。もし紹介していないだけだったり、全てを知ったうえでそういう発言だったのでしたら申し訳ありません。
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薩摩島津を思う熱き同士がいる事に感動致しもした!
猫好きに悪人なし
😻猫神社😻
@大石内蔵助-k9s そうですね。
仙巌園内にありますな。
しかし、端にある島津が中央政界?に疎くなるのはしょうがないわけで、司会陣の島津嫌いが伝わり、なんか嫌な回ですな。
@@カリデカ 朝鮮出兵のさい、明(チャイナ)の工作員が極秘に薩摩に来日し、島津の僧侶と会談してますよ。明、島津連合軍で豊臣政権転覆の工作。島津単独で九州統一できたのだから、明と組んで日本支配は可能だったはず。ナゼ、それを蹴ったのかは藪の中。琉球を通じて世界が最も理解できたはずです、
秀吉の朝鮮出兵のさい、明国(チャイナ)から密使が薩摩に来日し、島津の政治僧侶と極秘会談している。明は薩摩と組んで豊臣政権を転覆、薩摩の傀儡政権を作ろうとした。島津単独で九州制覇できるのだから、明と手を結べば天下取りは可能。ナゼか、島津はその工作に乗らなかった。琉球を通じて世界の情報が取れた。その情報を活かすも殺すも、斉彬クラスのクレバーでないと。武骨だけでは。